蓋の空いた箱のような形を描くと、
そこにある空白以前、あるいは後に存在する何かに思い至り、
デッドスペースに対応する鮮やかな色彩の図形を配してみた。
この図像は、何か具体物の抽象化というよりは、
現象世界の構造を概念化したもののように感じるた。
ハレとケの概念や、日常と祝祭といったような、
相互で人類の営みを補完するものを表しているのかもしれない。
経済人類学や文化人類学という学問においては、
「祝祭 」 とは、人間が常に、「過剰」 をつくりだして、
そのすべてを 「蕩尽(消尽)」 する 「営為」 なのだとされる。
言い換えれば、祝祭を経た後、
そこには空っぽの空洞が残るということである。
来る2020年の東京オリンピックは、
日本人にとってとても大きな祝祭であるが、
我々の日常の営為の蓄積を放出し、消尽する場になるとすると、
その後の空箱の活かし方も念頭に、計画的な祝祭を
執り行う必要があるのかもしれない。
ロンドンのオリンピックがその成功例とされているが、
オリンピックの遺産をどう都市の成長に還元できるかが
綿密に計画された祝祭になることを期待したい。
これは、物質的なことだけではなく、
都市を形成する人々の精神的な部分もそうなることで、
更に充実した都市作りへと繋がっていくのかもしれない。
おそらく、2020年の東京オリンピックへの国民の関与度は
1964年のそれよりも低いことが予想される。
それは、オリンピックですら、どこかオンライン上の出来事のように
とらえてしまうSNS時代独特の感覚であったり、
人々が個人単位のプチ祝祭を多く持つようになり、
祝祭と日常の境界が曖昧になったことによる、
祝祭の特異性の低下が大きく影響していくのではないか。
2015.09.05